「わが母の記」見てきました
東京は有楽町丸の内ピカデリーで「わが母の記」見てきました。今年に入って16本目の劇場での映画になるが、これが初めての邦画。
主人公の作家が記憶の片隅に僅かに残していた遠い思い出を、記憶を失ったはずの年老いた母親が大切にしていてくれた・・・、そんなシーンがあった。音楽でいうところのサビのような場面では、主人公と一緒になって泣かされてしまった。樹木希林という役者はあまり好きではないが、少しずつ老いさらばえていく様子を見事に演じていた。
映画の一番のおもしろさは「非日常の体験」だと常日頃から思っている私には、こういう作品は反則である。年老いた親を持つ大人であれば、たいていは体験する「日常」を描いて泣かしてやろう、なんぞというのはいかんがね。
話は主人公の作家(役所広司)の父親(三國連太郎)の死から始まる。主人公のナレーションで、「私は父の死で初めて死というものを自覚したが、母親が生きているおかげで壁になってくれている」といった意味のことを語っていて、まったく同じ思いであることに気づかされた。
私の父は享年72歳だった。私はだいぶ前から漠然と自分の寿命は72歳と決めている。その歳までは生きるものと勝手に思い込んでいる。それまで死なないつもりなのは、名古屋近郊のK市に母親がいてくれるせいなのかもしれない。いかん、いかん。話がそれたが、こんなことを考えさせてくれる映画も、たまにはいいのかもしれない。
しかし、この家族の裕福なこと。撮影では井上靖の世田谷の住居が実際に使われたとのことだが、そのりっぱなこと。芸術家も一流となるとこうなんでしょうねぇ。一流になるまでの作家としての苦悩とか困窮といったところがまったく描かれず、やや物足りないが、「わが母の記」だからしかたない。焦点を絞ったんでしょう。
そうそう、このタイトルの「わが母の記」。昭和の文豪にいちゃもんをつけるのもおこがましいけれど、「わが母」という表現はよくないのとちゃいますか。「母」といえばそこに「自分の」という意味も暗に含まれているのとちゃいますか。「あなたの母」とか「かれの母」という言い方はしないでしょう。「馬から落ちて落馬して」とか「腹が腹痛」とまではいかないにしても「わが」は余分とちゃいますか。文豪としては「母の記」よりも「わが母の記」のほうが語感が良かったのかなぁ。そんなことも考えさせられた作品でした。

















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